2011年04月25日

悲鳴を上げ始めた観光地

 我が家のマイブームと言えば、最近ではクーポン探しだ。
 つい最近までは、旅館の宿泊クーポンというのは、これという格安なプランを探し当てるのはかなり困難だった。昨年末のおせち騒動にもみられるように、今のところ日本では玉石混淆の感がある。だから、ユーザー側もしっかりとチェックしなければ、ババを引きかねない。
 ところが、ここに来てめぼしいプランが目白押しになってきた。旅館は、お客が入らなければ成り立たない。大手のホテルなどでも、考えられないくらいの格安なプランを出し始めた。
 これが果たしてよいことなのか、諸手を挙げて歓迎する気にはなれない。しかしながら、一方で、我々のような立場の人間が、平日に利用してあげることを考えないと、また行けないことも事実だろう。日本は本当にどうなるのだろう。観光地の悲鳴と我々の不安感は同一のものだ。
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2011年04月23日

石和への小旅行

 今月の旅行は石和に行きました。温泉にです。
 何故にと聞かれると、少し説明が必要です。というのは、最近はまっているものに、クーポンがあります。およそ一年くらい前からはまっています。その中で、石和温泉も買ってあったのです。
 noriが退職するまでは、平日に旅行など考えられなかったのですが、4月に行こうと思って計画を元々立てていて、あの震災です。計画停電も始まりました。また、世の中の、この時期旅行なんて差し控えるべきと言うような風潮も相まって、行く機会を失っておりました。
 何の気なしに、ページを見ていると、信玄公祭というものが12日にあると言うことがわかり、予約をすることにしました。ただ、それからその祭が中止になってしまいました。しかしもう、クーポンの期限の問題もあり、行くしかない!と決心した次第です。
 今回ようやくとページが出来ました。
 桜や桃の花を見るにつけ、東北に春の来る日はいつなのかと、悲しい気持ちになりました。
本編はこちらから
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2011年04月22日

レンブラント展へ行きました

rembrandt20110422.jpg 『レンブラント 光の探求/闇の誘惑』(国立西洋美術館)に行って参りました。この日を選んだのは、スライドトークがあるからです。最近、ギャラリーウォークや講演など、こうしたタイアップのあるイベントがある日に展覧会に行くことにしています。特に主催者側の、というかその展覧会の企画に携わった人々の登場するものは、聞き応えなどあり、すばらしく感じます。
 今回も、企画側の方のようで、企画の意図などを聞くことが出来ました。

 レンブラントと言えば、「夜警」が有名です。というか、レンブラントと言えば、夜警や放蕩息子の帰還rembrandt20110422.jpgなどの、ざっくり言えば、暗い中にスポットのように光を当てて描く、「光と影の魔術師」という分野が印象でした。そして今回のボストン美術館の所蔵する「アトリエにいる風景(紹介ではアトリエにいる画家)」が来ていました。レンブラント初期の傑作です。ウォーフェ割れのレンブラントに対する知識はこの域を出ないで、会場に行きました。(写真夜警はウィキペディアから・・・この画像は少し実際よりは明るいのではないかと思う)

seiyoubijyutukan20110422.jpg 西洋美術館に到着した時間は、13時少し前だったので、スライドトークまでは時間があり、最初に少し見学しました。その前に例によって、音声ガイドを借りました。今回は辰巳琢郎のナレーションです。以前も書きましたが、俳優よりもアナウンサーの方が聞きやすい(俳優は舞台をつとめるからナレーションに必ずしも向いてはいない)といいましたが、今回も少し聞きづらかったです。滑舌の問題ではなく、構成の問題だと思いますが、解説の録音が終わったのかどうかがわからないような話し方はよくありません。

 会場に踏み込んで、私たちを驚かしたのは、油絵ではなく、エッチングなどの版画のオンパレードの展覧会であったことです。この時初めて、レンブラントという画家が、油絵ばかりではなく、版画家としても成功を収めた人であったということでした。今回生涯での作品数300余と言われる中の実に110点もの作品が集められました。30分ほど見学しました。ちなみにこの展覧会は4つのパートに分かれています。私たちは最初のパート「黒い版画:レンブラントと黒の階調表現」の途中で、スライドトークの会場である講堂の前のいすに座って待つことにしました。というのも、少し不安に思ったからです。だいたい会場で、今日はスライドトークをしますよ、というような放送があるのですが、全くなかったからです。後から会場の人の話を盗み議するなどしてわかったのですが、どうも集まりすぎるのを嫌っていたようです。
 さてスライドトークですが、ちなみにこの企画も、本来は夕方から行われるイベントでした。多くの美術館などでは、最近金曜日の夜は8時か9時頃まで開館しています。この時間は比較的空いているばかりでなく、多くの働く人々が鑑賞可能な時間帯です。好ましい取り組みと思うのですが、これも今回の震災騒ぎで中止となり、したがってスライドトークも時間が繰り上がった訳です。もちろん節約に努めるべきでしょうが、それならば休館日を少し増やすなどの方が、効果は上がると思います。働いている人たちへの鑑賞機会の縮減は、決して被災されている人たちの希望ではないと思います。改めてもらいたいものです。(震災を理由として経済的縮減に努めていると思えてなりません。)
 スライドトークなるものは、スライドによる作品解説をすることでした。私たちは一番前の席を占めましたが、大きな画面に作品を拡大するなど工夫があり、細部にわたっての鑑賞が可能でした。最初にこの解説を聞いてから、展覧会場を結果的には回ったので、あらかじめ知識が加わり、鑑賞の助けになりました。
 この展覧会のキーポイントは、3つあると思いました。まずは版画の技法がわかっていた方がよいと思います。
 またレンブラントは、特にドライポイントの作品において、何度も手を入れています。以前描いた線を消すのにどうしたのかちょっと不明な点もあるのですが、おそらくは版を重ねて薄くなってきた部分を、その部分ともども全体を薄く削って、再構成したのではないかと思います。今回の展示では2/Vのように記され、一つ目から数えて全体で3版作られ(つまり二回改変が行われ)、その二版目(つまり一回目の改版のもの)といような表現をしていました。最初から何番目の反歌と言うことを言う表現として、ステージという言葉が使われるようです。これは、現代において版画家は概ね、33/100のように版画の横に記入して、それがいくつ作られた何番目のものかというのがわかるようになっています。それを応用したのでしょう。あるいはこの表現の方が先にあったのかもしれません。
 それから最後は、紙です。なんとレンブラントは勝負紙に「和紙」を使っていたようです。後から知りましたが、「レンブラントと和紙」などという本まで出版されています。ジャポニズムによって、写楽などから多くの西洋画家が影響を受けていることはつとに有名ですが、レンブラントもまた別の意味で日本と深く結ばれていたというわけです。これは今回の展覧会の一つの必然と行ってよいと思います。そしてこれまた私たちの大きな驚きでもありました。

 スライドによる作品解説を聞いたあと、また会場に戻りました。
 第二パートは、「淡い色の紙:レンブラントの和紙刷り版画」です。この和紙ですが、いくつか好まれた理由があるようです。第一は、柔らかいと言うこと。版画は刷れば版画微妙に痛みます。これを緩和してくれたと想像されます。第二は、色です。西洋紙の限りなく城に近い色合いからすれば、和紙は幾分か時に黄みがかり時に象牙色をしています。その風合いが、シャープさを和らげる効果があったと思われます。第三には、紙の繊維の問題です。和紙の繊維は長いので、鋭角的なドライポイントなどのインクののりを和らげ、線画からどちらかと言えば筆で描いたような効果へ導くものと思われます。このためかどうかはわかりませんが(というのもレンブラントという画家はあまり手紙や日記のたぐいを残していないそうです)、特に低いステージの時に、コレクター用に和紙が多用されたと言うことです。
 このほかにもオートミール紙とか中国紙とかありましたが、これがどのようなものなのかは判然としませんでした。オートミール(燕麦)で作った紙なのでしょうか?質感はざらざらしているようです。西洋史を含め、これらはそれぞれの風合いを持ちますが、丁度日本酒を猪口とグラスとますで飲むとそれぞれの風合いがあるように、同じ版木(正確には版金属)でも味わいが違うものになって、興味を持ちました。

 第三パートは、「とても変わった技法:レンブラントのキアロスクーロ」です。キアロスクーロは直訳的に言えば、明暗法というような意味らしいです。写真の世界では、「レンブラントライティング」という言葉さえあります。これは絵画と同じく、彼の特筆すべき闇と明の世界を描き出す技法を中心とした展示です。実際、ここでは油絵が他の部分よりも多く出展されています。

 第四パートは、「三本の十字架とエッケ・ホモ<民衆にさらされるキリスト>」がステージの違い、すられた紙質のちがいを複合し、何点か展示されています。特に、この二作品は他のものよりもサイズも大きく、見応えがあるものです。こうした細かい細工を大きなサイズで仕上げるには忍耐とともに体力が必要とされたことでしょう。またこの二作品は、写されているものが前後のステージで大きく変交差している点でも、tくひつすべきでしょう。たとえば三本の十字架では、初期のものは処刑後ですがステージが上がると処刑直前のキリストになります。先にも書いたように、どうして同じ版でこうしたことが出来たのかは、不可思議なところです。あるいは別の版を起こしたのか?謎でした。

goya20110422.jpg こうして4時半には、鑑賞を終えました。久しぶりの上野は、成長した東京スカイツリーがほぼ完成域に達した姿を見せていました。もちろん、人ではかなり少なかったです。帰り際には、少し寂しい思いがしました。

 国立西洋美術館は、このレンブラント展が6月12日まで開催され、7月5日(火)から9月25日(日)まで「大英博物館 古代ギリシャ展」が、そして10月22日(土)から平成24年1月22日(日)まで「プラド美術館所蔵 ゴヤ 光と影」と立て続けに大きな展覧会が続く年です。最低でも二度ほど足を運ぶことになりそうです。
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2011年04月16日

なかの史跡ガイド 鷺宮コース 補遺

 「なかの史跡ガイド」(中野区教育委員会)の鷺宮コースの記述の最後に、<コース以外のポイント>と言う記述があり、五ヶ所が紹介されている。それを紹介したいと思います。

 勝手ながら、出発点は鷺宮の二つ新宿寄りの野方からにさせてもらいました。

 野方駅の南口を降りたら、そのまま道路を南下すると、やっほーロードに出ます。右は、吉牛(吉野家)があります。そこをうせつ、つまり吉牛の方に曲がります。野方の商店街が続きます。6〜70メートル行くと、Y字路に出ます。帰りは右手の道から帰ってくるのですが、ここでは左手を選びます。そのまま商店街がなくなり住宅地になっても進みます。やがて左手にクリームがかったマンションが見えてきます。ライオンズマンションです。そこは十字路になっており、この後更に20メートルほど進むのですが、ここでは一旦左に折れます。ライオンズマンションの入り口の道を隔てて反対側が最初のポイントです。

享保10年(1725)の庚申塔
 それは小さな堂宇に覆われています。その中に庚申塔がありました。

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仙蔵院
 次の仙蔵院に行くには、一旦十字路まで戻り、更に20メートルくらい進むと、右折できる道があります。都立家政銀座につながる道で、途中から路面がアスファルトから煉瓦様の道(インターロッキング)に変わります。そこを進んでいくと、そろそろ電車の音が聞こえてきて都立家政駅に近づいたなと思う頃、左手にとりつかせい内科クリニックがあります。そこを左折します。民家に隠れて、少しくぼんで、右側に仙蔵院の入り口が見えてきます。
 猫のあしあとによれば、『除地、1段8畝18歩。村の北の方にあり。瑠璃光山浄光寺と号す。新義真言宗にて中野村宝泉寺末。客殿5間半に4間南向。本尊不動、木の立像にて長2尺、開山開基詳ならず。(新編武蔵風土記稿より)』と解説されています。一方、底本にしているなかの史跡ガイドには、『創立ははっきりしませんが、下鷺乃宮の名主横山氏の祖先が観音堂を建て、所有地を寺地として寄進したものといわれています。』とあります。何かちぐはぐですが、どうしたことなんでしょう。
 現在の寺院は奥まった場所にあり、幾分かの墓地もあり、細々とではあるようですが、寺として存在していることが伺われました。
 次のポイントへは、一旦家政銀座の通りまで戻り、都立家政駅方向に進み、踏切を渡ります。

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寛政4年(1792)と宝暦13年(1763)の地蔵
 都立家政駅脇の踏切を越えて北上すると、右手にセブンイレブンがあります。その先の十字路を一旦左折します。一旦と書いたのは、あとで、この道を右折した方向に進むからです。左折して少し行くと右側に墓地が見えてきます。その一角にあります。
 ここに二体の地蔵尊があります。宝暦13年のものが左側で、やや小ぶりです。
 元々は寺があったようですが、廃寺になり、現在は福蔵院(なかの史跡ガイド 鷺宮コース 本編で紹介済み)の墓地となっているようです。

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寛政12年(1800)の庚申塔
 次のポイントまでは、今来た道を引き返します。そして先ほどの都立家政から来た道を横切り、その次の十字路を、ここでもまた一旦左折します。一旦と書いたのは、先ほど同様、右折方向にその次のポイントがあるからです。
 左折すると、左手に堂宇が見えてきます。この堂宇、鈴がついているので、仏様か神様が奉られているものと思われますが、中をうかがいましたが、肝心な部分はカーテンで覆われて判然としませんでした。何か、集会場のようにも使われている雰囲気でした。
 しかし、ここで見る庚申塔はその堂の左手にありました。庚申塔と言いますが、石柱に文字が書かれているもので、教育委員会の解説が左手にあります。どうも、道しるべの役割も果たしていたようです。
 正面には「青面金剛云々」、右手には「聖観音云々」、左手には「馬頭観音云々」と書かれているらしく、それぞれ、悪疫を防ぎ人々の健康長寿を、牛馬の供養を、苦難からの解放を、願っているとのことです。
 ここから次のポイントへは、来た道を引き返します。

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<正徳4年(1714)の庚申塔>
 来た道を引き返し、曲がったところも直進し、しばらく住宅地を進みます。これといった目印はありませんが、とにかく道なりに進むと西武新宿線の踏切に出ます。
 その踏切を渡る直前、右側にあります。
 写真を見るとわかるように、背景に電車が移っていると思います。本当に線路脇です。ここでも、千羽鶴や、きれいな花が供えられ、線香の灰さえも見えました。民間信仰が生きていることがうかがえます。
 ここからは、さらに道なりに進みます。そうすると野方の商店街に戻ってきます。先ほど左側の道を選択したY字路の右側に戻ってきます。更に進めば、吉牛で、それを左折すれば野方駅はすぐそこです。

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 今回も、底本には「なかの史跡ガイド」を使いました。また文中で触れたように、「猫のあしあと」を参考にしました。

 最期に地図をつけておきます。


より大きな地図で なかの史跡ガイド 鷺宮コース を表示
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2011年04月13日

震災後初 石和小旅行

 今日もいい天気だ。富士山も白い頭を覗かせている。
朝一番はまず温泉に入ること。これで昨日の酔いも醒めるというものだ。
 朝食はバイキングスタイル。我が家にとっては非常にまずいスタイルだ。というのも、今は栄養管理しなければならないのに、これではできそうもないからだ。いや、それぞれの意志が強ければ問題ないのだろうが、目の前に並べられた料理には勝てはしないというのが本当のところだ。
 ということでやっぱり山盛り、満腹の朝食となってしまった。
続きはこちらから
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2011年04月12日

震災後初 石和小旅行

 junが常日頃から「ふぐが食べたい、ふぐが食べたい」というのを耳にしていたnoriが見つけた石和温泉のふぐ料理の宿。(もっともこの希望は最初には、『ふぐとかき山陰山陽大満喫の旅』で叶えられていたし、そのごも都内でもふぐ料理屋には行っている。)
 東日本大地震以降あまり遠出は出来なかったのだが、どうにか落ち着いてきたので、予約を入れた。と言うのも、この時点では例年武田信玄の命日の12日に行われる武田神社の祭礼行事が行われる予定であった。それに合わせたわけだが、日本中の自粛ムードの中、中止となった。(実は超自粛モードで行われたらしい。我々も開催を知らせる花火の音は確認した。やはり地元では信玄さんである。)
 さて旅館に電話すると、計画停電が行われるときには温泉に入れないとか、売り物の一つになっている中国雑伎団のショーは、皆帰国してしまったので行われないとかの説明があった。つまり、それでも良いかと言うことだったのだが、最近停電はないしまあ大丈夫だろうと言うことで12日に行くことに決めた。
続きはこちらから
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2011年04月11日

フェルメール展に行きました

vermeer20110411.jpg 今日は一年に一回行くjunの病院の日で大船まで行きました。

 そのついでを利用して、東急文化村でやっている「フェルメール《地理学者》とおらんだ・フランドル絵画展」というのを見に行きました。

 日本では本当にフェルメールが来ると言えば、大騒ぎですが、これも一点豪華主義の見本のような展覧会でした。というか、展覧会の作品群はドイツのフランクフルトにある「シュテーデル美術館」がよくこれだけのものを貸し出したと思うのです。

 最初に東急文化村のザ・ミュージアムですが、ちょっと施設的に古いのかなぁと思いました。小さいです。作品が所狭しと並べられている感じで、あまり施設的によい感じがしませんでした。第一、会場内にトイレがありません。第二に、ロッカーが入り口にありますが、それが施設内なので、帰り際にまた入り口まで特別な通路を通って戻り、再度そこを通って出口に出なければなりません。

 作品ですが、解説が難しかったです。またオーディオガイドの解説も、文章を読むのが下手です。解説は役者でもうまければよいのですが、アナウンサーの方がよいです。

 展示は、それこそフランドル絵画のオンパレードで、それも浅学な私たちには聞き慣れない人がほとんどで、全体的には食傷気味でした。ただ、よかったのは作品との距離がなく、細かい点も肉眼で確認できたことです。レースの質感など、画家が苦労して表現している部分を、その表現力を余すことなく干渉できました。

 お目当てのフェルメールですが、フェルメールお得意の左光線の、緻密に計算されている傑作と思いました。それに青いたぶんこれもラピスラズリを使っているのでしょう、その色で描いたガウン状のものを着ているのですが、これが日本趣味と言うことで驚きました。

 この日東京では、夕方雷雨があったのですが、その雷雨の直前に自宅に戻りました。
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2011年04月09日

なかの史跡ガイド 鷺宮コース

 昨日今日で「なかの史跡ガイド」(中野区教育委員会発行)の 「鷺宮コース」を歩いてきた。

 西武鉄道の鷺ノ宮の駅(駅は鷺ノ宮と、カタカナのノが入ります)を降りたら、南口を出てすぐ前の妙正寺川に架かる橋をわたり、川沿いに新宿方向に進みます。本当はだいぶ近道があるのですが、寺門から入りたいので、少し川沿いを進みます。大きくカーブを川は切ります。見えてきた最初の橋を右に、つまり川かrたはなれる方向に進み、右側の壁(寺の壁)伝いに行くと寺門に出ます。そこが福蔵院です。

<福蔵院>A←これは、上記「なかの史跡ガイド」の地図の番号で以下同様 
 最初に訪れたのは福蔵院というお寺。もともとは隣にあり、次に訪れる予定の鷺宮八幡神社の別当寺で会ったらしい。しかし今は寺域も八幡神社の社域の数倍はある大きな部分を占める。ここでの見物は、中野区の指定文化財にもなっている十三仏。解説には、「このように石像で十三体そろったものは都内でもめずらしく、他の石仏と同様、江戸時代後期の日常生活に深く根付いていた民間信仰の現れといえましょう。」とあります。
 この寺では、ちょうど「花まつり」の日だったので、本堂の前にお釈迦様の「天上天下唯我独尊」ポーズの誕生仏が置かれてありましたので、恒例に従い甘茶をご神体におかけしました。
 その本堂ですが、かなり大きな建物で、横幅は二十メートル弱はあったのではと思います。おもしろかったのは、その屋根で、南向きの面には太陽光発電用の電池がずらっと並んでいました。

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<鷺宮八幡神社>@
 この神社は由緒正しきいわれのある(神社は見なそうだろうが)ということで、江戸時代には中野区内で唯一御朱印地を安堵されていたとのことです。
 社の説明によれば、「当社の創建は康平七年(1064)陸奥守源頼義勅を奉じ、東国平定後鎌倉街道に面した統治に社殿を建て、八幡祀神の御神霊を奉祀し戦勝感謝国家安泰、源氏の隆昌を祈願したのが始めであると伝えられる。」とある。鷺が多く生息していたようで、鷺宮大明神と別称されたらしく、これがこの地の名前の由来となっている。
 先の地震のためであろうか、石の鳥居の二つが傾いていて、立ち入り禁止になっていた。
 現在でも信仰は厚いようで、社務所には常時人がいてお札を売っている(正しくは授与してくれる)。この日も求める人がいた。
 社殿向かって右手には稲荷神社なども奉られている。社殿向かって左の脇から道に出て、右方向に向かえば鷺ノ宮駅に出る。

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<上鷺宮の願かけ地蔵尊>I
 鷺ノ宮駅の脇を通る中杉通りの西武新宿線の踏切を越えて北上する。途中新青梅街道を横切り、最初に見えてくる信号の右脇に二体の地蔵尊がある。目の前はもう練馬区。
 大小二体で、一対をなしているようで、願い事がある人は小さい方の地蔵尊を大きい方の地蔵尊に倒すのだそうです。大きい方は小さい方が重たいので、願い事を叶えて元に戻してもらおうとするのだそうです。願い事の叶った里人は、そっと小さい方を元の位置に戻すのだそうです。
 次のポイントまでは、この地蔵尊のある交差点を進行方向左に曲がります。

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<北原神社>J
 願かけ地蔵尊からの道を道なりにしばらく進むと、道は突き当たります。そこを右折して進むとやがて信号が見えてきます。信号の手前には神鷺東公園というやや大きめの公園がありますので、間違える心配はないと思います。そこを左折して150メートルほど進むと右手に小さな社があります。塀などは普通の家の塀のような佇まいです。
 北原は「きたっぱら」と読むのだそうで、これはこの地が鷺宮神社の北側に広がる野原だったことに由来するとのことです。

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<つげの木地蔵>K
 北原神社のすぐ先の十字路を左折して南下すると、新青梅街道に出ます。なかの史跡ガイドでは少し近い道が書いてあるのですが、そちらは少しわかりにくいです(筆者もそちらの道を行きましたが、その場合はそちらに当たってください。)。さて新青梅に出たら、左折します。道路は渡りません。しばらく行くとローソンがあります。このローソンの建物の裏手につげの木地蔵はあります。
 この地蔵尊は、大きなつげの木に覆われたその下にあったらしく、それ故にこのながあるとのこと。ただし、今はその木はありません。それでも小さなつげの木が傍らに植わり、目新しい石版も立っているので、現在でもなお信仰の続いていることが伺われました。この地蔵尊自体が昭和のもの。というのは、この地にあったものは終戦後に盗まれてしまったから。こうした努力は地域のどのような組織がやられているのでしょうか。
 また立っている場所は新青梅街道から20メートルくらい奥まったところなのですが、たぶんかつてはここが正当な道だったのでしょう。

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<笠付きの庚申塔>H
 つげの木地蔵からここは近いのですが、ここで新青梅街道を渡ります。渡る信号は「武蔵丘高校入り口」です。渡ったら、新宿(鷺ノ宮駅)方向に進むとすぐに右斜め前に分かれる道に出ます。その道を選び進んだ最初の十字路にあります。高さは一メートルにも満たないもので、かなり地味に存在しますから道路脇を見落とさないように。
 このスタイルの庚申とは日本全国にいくつもの例があるらしい。ネットで探すと結構の数が見つかる。元禄15年(1702年)のものとのことで、赤穂浪士の時代からこの地に存在していると言うことになります。笠を更に覆うように、きれいに刈り込みされた木が覆い被さって、道路の片隅にひっそりとたたずんでいます。これも人の手が今日なお入っていることを伺わせます。
 次のスポットには、この写真で言うと右手方向(つげの木地蔵から歩いてきた交差点を右折)に、新青梅街道からは離れていく方向へ進みます。

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<庚申塔と地蔵尊>G <御嶽神社と地蔵尊>F
 少し前のスポットからは離れていますが、道さえ選択を誤らなければ、一本道です。400メートルくらい進んで、少し不安になってくる頃、四つ角手前右側にそれはあります。十字路の角、ブロック塀の一角を切り取った空間です。少し悲しい気持ちにもなりますが、それでもここでも日よけのように小さな木が植えられています。
 ここには説明もなく、また既に文字の判読も素人には不可能でした。

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 さてその十字路の向かい側の角には地蔵尊があります。御嶽神社の一角を切り取った形で、存在します。先の地蔵尊は板碑の形式ですが、こちらの地蔵尊はお姿全体が見て取れる形式です。子育て地蔵という別称があるようで、子供の育たない施主が願いを込めて立てたものだそうです。今日もなお、こうして存在していると言うことは、霊験あらたかなものがあるのでしょう。

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 その地蔵尊に一角を貸しているのが御嶽神社です。(木曽の)御嶽信仰に基づく社なのでしょう。農閑期を利用し、訪れたのでしょうか。
 今でも真新しいしめ縄がありますので、これもなお続いている信仰なのだと言うことがわかります。境内には板碑などがあります。

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 次のスポットへは、歩いてきた方向から左に曲がります。つまり、だいたいで言えば、御嶽神社の社から鳥居の方向に向かいます。

<交通厄除地蔵尊>B
 よほどの早朝や深夜出ない限り西武新宿線の音がやがて聞こえてくるはずです。踏切を渡ると東京都住宅供給公社の鷺ノ宮住宅エリアに入ります。道なりにそのまま直進すると、団地の配置図が現れます。その解説図に従って、そうでなくとも概ね南東方向、つまりは左斜め前に進む進路をとれば、妙正寺川に出ます。
 妙正寺川に出たら、適当なところで橋(というかそのまま突き進めば橋がある)を渡り、対岸に出たら左折し、妙正寺川沿いに新宿(鷺ノ宮駅)方向に進みます。やがてバス通りに出ますが、その先が鷺ノ宮駅です。駅にはしかし行かず、バス通り(中杉通り)を右に行くと、程なくで交通厄除地蔵尊にでます。
 交通厄除地蔵尊はいくつもの石仏等が集合された場所で、その後ろは公園になっています。ここに集められている石仏等は,妙正寺川の改修時に集められたものだそうです(改修記念碑もあります)。
 交通厄除地蔵尊というのは、たぶんかなり後世のものと思われます。解説書にもなぜ「交通」なのかはありません。というよりも、時代が下ると、交通安全が重要な現世的利益の課題になってきたという証拠かもしれません。

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<天神山の森>C
 ここへ行くのにはっきり言って迷いました。ですから少し面倒ですが、わかりやすい道を書きたいと思います。
 交通厄除地蔵尊から、鷺ノ宮駅を背にしてバス通り(中杉通り)を進みます。やがて左に大きな鷺ノ宮フィットネスクラブの建物、右に白鷺教会が見えてきます。その白鷺教会の角から数えて一つ目、一つ先の角を右折します。少しうっそうとして木々が生い茂っているところを通ると、その先左手が天神山の森です。でもそのようなことは書いてありません。今の名称は、「そろの木公園」と言います。ソロの木とは、イヌシデのことのようです。
 公園は入り口から一段高い場所にあり、四阿などもあります。
 ここは天神様を奉ったほこらがあったことに由来するそうで、武蔵野台地の古き雑木林の頃の面影を残しているところです。眼下にはかつては妙正寺川が見えたのでしょうが、今は家が建ち並んでいます。
 ここから直接次のスポットに行けるのですが、筆者のように迷わないためにはいったん中杉通りまで戻りたいと思います。

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<庚申前の石仏>D
 中杉通りに戻ったら、右折して更に先に進みます。右側中野白鷺郵便局が見えたら、そのすぐ先の角にあります。
 鋭角な角になっている場所で、五体の石仏があります。なぜ庚申前の石仏というのでしょうか。中野区のページには「中杉通りの五叉路にある五体の石仏。明治時代、「はやり病」があった時に、とてもご利益があったといわれており、今でも地域の人びとに大切にされています。」と説明がされています。
 さていよいよ次が最後のスポットです。これも比較的わかりにくいです。

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<屋敷森>E
 屋敷森というのは防風林のことのようです。この辺り一帯はたぶん家々は季節風を避けるために、周りを雑木林にしていたのだろうと思います。でも今では開発が進んで、その面影を残すのは、ほんの一部になっています。現に筆者が歩いた際にも、木々が取り除かれている光景を目にしました。
 それは中杉通りを更に進んで、左側にあるエリアです。左側にバスの回転エリアがあります。その後ろあたりに木々がうっそうと茂っているのを見ることが出来ます。それは一件のお宅です。このあたりの旧家のようで、同じ名前のマンションも近くにありました。

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 以上で鷺宮コースは終わりです。上のバスの回転エリアのところにバス停があり、JR.阿佐ヶ谷あるいはJR.荻窪方面のバスがたくさん出ていますので、利用するのもよいでしょうし、そのまま鷺ノ宮に引き返す方法もあります。

 さて、このコースには番外編が「なかの史跡ガイド」には掲載されています。後日訪れたいと思いますが、とりあえずこれで完結とします。

 参考にしたのは、「なかの史跡ガイド」と中野区のホームページおよび、中野区教育委員会が建てている解説版です。

 最後に、今回のミニトリップの地図をつけておきます。


より大きな地図で なかの史跡ガイド 鷺宮コース を表示
posted by honkawa at 18:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 2011国内旅行